石垣島アクティビティ|“ただ立っていただけ”のはずが癒された体験
旅というと、何かを体験し、感動し、写真に残す——そんな“アクション”が価値だとされがちだ。でも、石垣島でのある瞬間、私はただ立っていただけだった。何もしていない、誰かと話してもいない、スマホも取り出していない。それなのに、ふと「癒された」と思えた瞬間が確かにあった。海を前にして、森の中で、風を受けながら、太陽の下で、ただその場所に“立っていた”というだけで、心と身体が静かに整っていく——それは石垣島という場所の、自然の力に包まれた証だった。この記事では、マングローブカヤック、SUP、シュノーケル、ダイビング、パラセーリングという5つのアクティビティの中で出会った、“ただ立っていただけ”の癒し体験を振り返る。
マングローブカヤック|森の水辺にカヤックを寄せて、ただ佇んだだけだった
カヤックで進んでいくうちに、ふと静かな入り江に入った。パドルを止めて、水の流れに任せていたとき、前方に陽の光が差す小さな空間を見つけた。そこにカヤックを寄せて、私は立ち上がることなく、ただ目線をまっすぐにして“そこにいる”という状態で数分を過ごした。風がそっと髪に触れ、木漏れ日が水に反射し、木々の匂いが漂っていた。ただ静かに、その場にとどまっていた。何もしていないのに、なぜか心が整っていくのを感じた。まるで自然が「ここにいていいよ」と言ってくれているような、不思議な時間だった。
SUP|波が消えた海上で、立ったまま空と海を見つめていた
SUPで沖まで出たあと、波も風も止まり、周囲の音が消えた瞬間があった。私はパドルを止めて、ボードの上でただ立ち続けた。足の裏で水面の揺れを感じながら、遠くの水平線と、頭上の空と、背中に感じる太陽のぬくもりを同時に受け取っていた。人間は動かなくても、感じることで満たされるのだと、初めて知ったような感覚だった。何も考えていないのに、なぜか涙がにじんできそうな優しさが、空間全体に広がっていた。
シュノーケル|水に浮いたあと、浜辺に立ち尽くした時間に救われた
海から戻り、フィンとマスクを外して、砂浜に立ったまま海を見ていた。どれくらいの時間が経ったのか、わからない。周囲には誰もおらず、波の音だけが一定のリズムで続いていた。私はただ、立ったまま呼吸を整え、少しずつ“現実”に戻っていく感覚を味わっていた。足元には濡れた砂、肌には塩の感触、頬には太陽と風。すべてが心地よく、何もせずに“立っている”という行為が、最高の回復になっていた。観光でもアクティビティでもなく、“存在する”というだけで癒されるとは思わなかった。
ダイビング|陸に戻った直後、ボートの上でただ立っていた時間が忘れられない
ダイビングを終え、ボートに上がり、器材を外し、誰も話していない時間。私は船のへりに立ち、濡れた身体で風を受けていた。海の匂い、太陽の明るさ、心地よい疲労感。それらを全身で感じながら、ただ“風景の中にいる”だけの状態だった。立ち止まるというよりも、止まっていたいと思える場所。五感が開かれているのに、思考が休んでいる不思議な状態。その静けさと満足感が、今でもふと蘇ってくる。あの立ち姿こそが、“癒されていた証”だったのかもしれない。
パラセーリング|飛行後の着地後、空を見上げて立ち尽くしていた
パラセーリングで空から戻ってきたあと、ハーネスを外し、他の人の順番を待つ間、私は空を見上げてそのまま立っていた。声を出さず、スマホも出さず、ただ風と光と自分の呼吸に集中していた。何かをするわけでもなく、ただ空を“見続ける”という行為。それだけで心が落ち着き、再び飛びたくなるような感情が湧いてきた。飛んでいるときよりも、実は“地に足がついてからの立ち尽くす時間”の方が、癒しの余韻が長く残った。
“ただ立っていただけ”が、なぜ癒しになったのか
私たちはいつも、意味のある行動や、生産的な時間に価値を見出そうとする。でも石垣島の自然は、“立つだけ”の時間に、圧倒的な癒しを与えてくれた。そこには、風の流れ、光の色、音のリズムが満ちていて、自分の心がそれに合わせて静かに解けていく。それは“何かをした結果”ではなく、“何もしていなかったから”起きた変化だった。自然と対話するのではなく、自然にただ“いる”ことが、こんなにも心地よいとは思わなかった。
まとめ|“ただ立っていただけ”の癒しが、旅の中の宝物だった
マングローブの森、SUPの海、浜辺、ボートの上、パラセーリングの後。どれも、ただ立っていただけだった。でも、その時間が今も記憶の奥に残っている。何も考えず、動かず、言葉も出さず、ただそこに存在する。石垣島の自然は、その“何もしない”という状態を丸ごと受け止めてくれる場所だった。癒しとは施すものではなく、受け入れること。次にこの島を訪れるときも、たくさんの計画を立てるよりも、ただ“立つ場所”を見つけたい。そこにまた、静かな奇跡が待っている。