石垣島アクティビティ|“SNS投稿しなかった”ことが正解だった体験
旅の思い出を残す手段として、SNSへの投稿はもはや日常になった。写真を撮り、加工し、キャプションを考え、ハッシュタグを添えてアップロードする。そのプロセスすら旅の一部に感じていた。しかし石垣島で体験したいくつかの自然アクティビティでは、写真を撮ったのに投稿しなかった。いや、むしろ投稿しなかったことが“正解”だったと心から思えた。マングローブカヤック、SUP、シュノーケル、ダイビング、パラセーリングという5つの体験を通して、「共有しなかったこと」がどれほど深い満足をくれたかを振り返る。SNSに頼らずとも、記憶に刻まれた体験がそこにはあった。
マングローブカヤック|誰にも見せなかった朝の静けさ
マングローブの森の中をカヤックでゆっくり進んでいたある朝。日が差し込み、影と光が交差し、水面に映る景色がまるで幻のようだった。写真を撮るには完璧な構図。しかしスマホを取り出すことなく、そのまま時間を過ごした。投稿しなかった理由は、「この景色を誰かと共有してしまうと、自分の中の特別さが薄れてしまう気がしたから」。静寂を含んだ空気感や、パドルを止めたときの無音の贅沢は、データに落とせない。SNSで見せなかったからこそ、その体験は“自分のもの”になった。
SUP|写真よりも、あの時の風の感覚を覚えていた
SUPボードの上で、鏡のような海面に立っていた時間。スマホを防水ケースに入れて持っていたが、一度も取り出さなかった。海と空の境界がなくなるような景色だったが、それ以上に印象に残っていたのは、肌に触れた風の強さと心地よさ。SNSに投稿しようとすると、どうしても“見せるための瞬間”を探してしまう。だがこのときは、見せたい気持ちよりも“味わいたい”気持ちが勝った。結果、記憶の中に残ったのは視覚よりも感覚だった。SNSに投稿していたら、そこには“構図”しか残らなかっただろう。
シュノーケル|映えない瞬間が一番美しかった
シュノーケル体験で出会った、まるで呼吸を合わせているように動く魚の群れ。サンゴの影を縫うように動くその姿に、ただ見入っていた。写真や動画を撮る手段もあったが、視界からスマホを入れたくなかった。水中は、色が飛ぶ、構図が安定しない、暗い――SNS投稿には不向きな場面が多い。しかし“映えない”は“価値がない”ではない。むしろそのとき見ていた景色こそ、“撮れないから美しい”と感じた。投稿しなかったからこそ、他人の反応に左右されることなく、自分の感動だけが残った。
ダイビング|無音の世界を誰にも言葉にしなかった選択
ダイビングで深く潜ったときのこと。音のない世界、揺れる光、ゆっくり動く魚たち。その中にいた10分間、写真も動画もなかったが、確かに“自分がそこにいた”という感覚が今もある。海面に戻ったあと、「あの時間は誰にも説明できない」と思った。だからこそ、何も投稿しなかった。言葉にせず、画像にせず、記録せず。記憶にだけ残すことで、体験はより濃くなった。SNSに上げていたら、その後のコメントやいいねが“本質”をかき消していたかもしれない。
パラセーリング|あの空の広さは、他人の評価が邪魔だった
空高く上がり、島全体を見下ろしたパラセーリングの体験。あの景色は、写真に撮ればきっと“すごいね”という反応をもらえただろう。でも、空にいるときの心の状態は、他人のリアクションを求めていなかった。“これを誰かに見せたい”ではなく、“この時間に誰も入ってこないでほしい”という気持ちの方が強かった。その感覚を守るために、投稿しなかった。空で感じた孤独と開放のバランスが、自分にとって完璧だった。それを壊したくなかった。投稿しなかったのは、体験を守ったということだった。
“SNS投稿しなかった”ことで体験が本物になった
投稿は記録になる。でもその一方で、“誰かに見せるための編集”が無意識に入る。それはときに、体験を“自分のもの”ではなく“見せるためのもの”に変えてしまう。石垣島での自然アクティビティは、そのままの時間を、そのままの気持ちで感じたいと思える場面が多かった。だから投稿をしなかった。投稿しなかったことで、後からも“自分だけの思い出”として大切にできた。いいねの数ではなく、自分の心の中で静かに響き続けている体験。それが本当の“記憶”だった。
まとめ|“SNS投稿しなかった”ことが正解だった体験こそ、旅の本質だった
マングローブカヤックの静けさ、SUPの風の温度、シュノーケル中の魚の流れ、ダイビングの無音、パラセーリングの孤独な空。それらのどれもが、投稿しなかったからこそ深く残った。見せなかったから、誰にも邪魔されず、比較されず、自分の中にだけ根づいた。石垣島のアクティビティは、“誰にも言わない思い出”の方が、人生の中で長く残るということを教えてくれた。投稿しないという選択が、“体験を守る”という行為になった旅。その静かな満足感が、何よりも贅沢だった。