石垣島アクティビティ|マングローブと対話するように進むカヌー
パドルを水に入れた瞬間、空気が変わったように感じた
石垣島の自然に抱かれるように始まったこの体験は、カヌーに乗って水に浮かんだその瞬間から空気の色が変わっていくようだった。最初に感じたのは、パドルが水を割るときの音のやわらかさ。水面に広がる波紋が、周囲の静けさをかき乱すことなく、むしろその静けさの中にすっと溶け込んでいくような感覚があった。まるで“はじめまして”と小声で挨拶を交わすように、マングローブの世界と自分の存在が接続されていく。言葉ではなく、音でもなく、目に見えない感覚でつながる始まりの瞬間が、そこにはあった。
マングローブが語りかけてくるように枝を差し出していた
ゆっくりとカヌーを進めていくと、マングローブの枝が左右から伸びてきて、まるで手招きするように空間をつくり出していた。その枝ぶりには規則性がなく、ひとつとして同じ形をしていないが、どの枝も自分に何かを問いかけてくるような印象があった。この道をどう通る?ここは進む?それとも戻る?と聞いてくるような気配が漂っていた。風が吹くたびに葉が揺れ、枝がわずかに軋む音が聞こえてくる。その音に耳を澄ませながら、パドルの動きを整えていくと、いつの間にか“会話”が生まれていたように思えた。
風の向きが変わるたびに、答えが返ってきた気がした
マングローブの間を抜けるカヌーの旅は、直線ではない。風の向きや水の流れに身を任せたり、軽く逆らったりしながら進んでいく。その中で、何かを選んだり、選ばされたりする瞬間がたびたび訪れる。左か右か、スピードを上げるか止まるか、そんな判断をすると、ふっと風の向きが変わったり、水面の揺れが反応するように変化することがあった。それは自然の偶然に過ぎないのかもしれないが、こちらの動きに対して、マングローブが答えてくれているように思えることがあった。自然とのやり取りは、常に沈黙の中にある“応答”なのかもしれない。
言葉がいらない空間では、目と耳が敏感になっていく
マングローブの奥に入るほど、会話も説明も必要なくなっていく。パドルを漕ぐ音と、水の中に落ちる葉の音、遠くで鳥が羽ばたく音、そうしたささやかな音がこの体験のすべてを物語っていた。言葉でなにかを表現する必要がないぶん、目に見える風景の“細部”と、耳に届く“間”のような音に自然と意識が向いていく。枝の先端の揺れ、水の奥で跳ねる魚の小さな音、それらひとつひとつが“今ここにいる”という事実を確認させてくれるようだった。カヌーはただの移動手段ではなく、五感で対話するための舞台だったのかもしれない。
マングローブの根の形が、沈黙の言葉に見えた
水面から顔を出しているマングローブの根は複雑に絡み合っていて、まるで文字のように見えてくる瞬間があった。その形は決して整っているわけではないのに、何かしらの意味を持っているように思えてくる。それぞれの根が水をすくうように立ち上がり、ゆるやかに広がっていく様子は、生命が静かに呼吸している姿のようでもあった。カヌーで近づき、視線を落としてじっと見つめると、その形が語るメッセージが心に伝わってくるようだった。問いを投げかけると、木々がゆっくりと答えてくれる——そんな錯覚にも似たやり取りが、確かに存在していた。
カヌーが自然に入っていくのではなく、自然が迎え入れてくれる時間
この体験のなかでふと感じたのは、自分が“入り込んでいる”のではなく、“招かれている”ということだった。水路に沿って進んでいくうちに、景色が徐々に濃くなり、空気がしっとりと変化していく。空間全体が、こちらを迎える準備を整えてくれているようだった。だからこそ、急いで進むことも、大きな音を立てることもしたくなかった。静かに、そして丁寧に進んでいくことで、この空間との“呼吸”が一致していく。カヌーのひと漕ぎが、自然との対話の文節になっているような、そんな繊細な感覚が確かにあった。
対話は音ではなく“選び方”の中にあったのかもしれない
どこを通るか、どれだけ近づくか、どこで止まるか。それらの小さな選択が、マングローブとの対話になっていたのかもしれない。どれだけ静かに動いたか、どれだけ風を読んだか、どれだけ水の深さを感じ取ったか——自然は言葉を持たないからこそ、こちらの姿勢を細かく見ていたように思える。パドルを置いて、ただ漂ってみたとき、水の揺れがいつもより柔らかく感じたのは、きっとマングローブが“聞いてくれた”からかもしれない。対話とは発するものではなく、受け止める姿勢のことだと、この時間がそっと教えてくれていた。
帰り道、風景がこちらを見ているように感じた
マングローブの奥からゆっくりと引き返すとき、同じ景色のはずなのに、そこにある枝や根、空の色までもが違って見えた。それはたぶん、見え方が変わったのではなく、自分の中の感覚が変わったのだと思う。行きは見つめていた風景が、帰りには“こちらを見返してくる”ような感覚になっていた。まるで対話を終えたあと、静かに別れを惜しむようなやりとりがそこにあった。カヌーを降りて岸に戻ったあとも、あの木々のまなざしのような空気が胸の奥に残っていて、それは今もときどき思い出される。