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石垣島アクティビティ|カヌーとマングローブに心を預けたあの日

カヌーが水面に浮かんだとき、心の音が聞こえたようだった

石垣島のマングローブ林に囲まれた静かな入り江にカヌーをそっと浮かべた瞬間、自分の中で流れていた慌ただしい時間がふと止まったように感じられた。パドルを水に差し込むと、音のない世界にひとしずくの波紋が広がる。その音に耳を澄ませていると、聞こえてきたのは風の音でも鳥の声でもなく、自分自身の呼吸や鼓動だった。カヌーという乗り物が、水に浮かぶというだけでこんなにも感覚を研ぎ澄ませてくれるのかと驚きながら、少しずつ心の扉が静かに開かれていくのを感じていた。

マングローブが作り出すトンネルは、自分の中に続いていたのかもしれない

パドルを動かしながらゆっくりと進んでいくと、マングローブの枝葉が頭上を覆い、日差しが細く降り注ぐ空間に変わっていく。木々の影が水面に映り、その影の間をカヌーが滑っていくと、まるで緑のトンネルをくぐっているような気分になる。その道の先に何があるのか分からないけれど、不安よりも静かな安心感が胸に広がっていた。マングローブのトンネルは、もしかすると風景ではなく、心の奥に通じる通路だったのかもしれないと思い始めていた。

水面に落ちた光のかけらに、なぜか救われた気がした

頭上の枝から漏れる光が、柔らかく水面に降り注いでいた。その光はひとつひとつが不規則で、動いているようで止まってもいて、目で追おうとしてもすぐに形を変えていく。けれど、その揺れる光のひとかけらが、自分の膝にそっと触れたとき、なぜかほんの少しだけ心が温かくなったように感じた。光に触れただけでそんな気持ちになるとは思ってもみなかったが、あの日の自分にはその優しさが必要だったのかもしれない。マングローブの中に差し込む光は、ただの自然現象ではなく、小さな癒しの粒のようだった。

漕ぐことに夢中になっていたら、いつの間にか無心になっていた

パドルを水に差し、左右のリズムを整えながら進んでいくうちに、余計なことを考えなくなっていた。体の動きと水の抵抗だけに意識が集中し、前に進む感覚に全神経が傾いていく。カヌーを操るという行為が、自分の心を整えてくれるとは思ってもみなかった。無心になることで初めて、自分がいかに日々“考えすぎていた”かに気づかされた。マングローブの中を進むこの時間が、思考を止めることの心地よさを思い出させてくれていたように感じる。

マングローブに近づいたとき、言葉を失った理由

カヌーが木々の根元に近づいたとき、手を伸ばせば触れられる距離に枝や根が見えてきた。その形は複雑で、絡み合い、伸びきり、土と水とを縫うように生きていた。目の前のその姿に対して、どうしても言葉が出てこなかったのは、きっと“言葉にできる”と考えること自体が失礼に思えるほど、存在そのものが圧倒的だったからかもしれない。そこにあるものを、ただそのまま受け取るしかないと思える瞬間に、人はようやく自然と向き合えるようになるのかもしれないと感じていた。

音がないのではなく、“音を必要としない”空間だった

マングローブの奥深くに入ったとき、不思議な静けさがあった。無音というより、“音を消してくれる”ような空気に包まれていた。風も、鳥も、遠くで鳴いているはずなのに、それがやけに遠くに感じられ、自分のまわりだけが時間から切り離されたような感覚になった。その中でカヌーの揺れだけが自分と自然をつなぐリズムになっていく。音楽ではないのにメロディを感じ、誰かの声はないのにメッセージを受け取っているようだった。静けさは“何もない”ことではなく、“満たされているから必要ない”という状態だったのだと知ったあの日の感覚は、今でも忘れられない。

マングローブとカヌーに心を預けたとは、こういうことだった

パドルを止め、ただ水の流れに任せたまましばらく漂っていると、急に涙が出そうになることがあった。悲しいわけではない、嬉しいわけでもない、けれど胸の奥にある何かが、マングローブに受け取られたような気がした。カヌーという小さな船に身を預け、マングローブの静かな森に包まれていた時間は、たぶん“安心して弱くなれた”という意味で特別だったのだと思う。普段は隠している心の柔らかい部分を、自然の中にそっと委ねることができたからこそ、自分の中に残っていた疲れや緊張がやわらいでいったようだった。

帰り道、マングローブが背中をそっと押してくれたような気がした

帰りのカヌーは、来た道を戻るだけなのに、まったく違う風景に見えた。水面に落ちる光も、葉の揺れ方も、風の温度も、すべてが心に触れてくるようだった。それはたぶん、心が変わったから風景が変わって見えたのだと思う。行きのカヌーでは自然を“見ていた”けれど、帰りのカヌーでは自然に“見られていた”ような気がした。マングローブが背中を押してくれたのか、それとも一緒に呼吸してくれたのか、理由はわからない。でも確かに、心がひとつ軽くなっていたことだけは、はっきりと覚えている。

あの日のことを思い出すたび、深呼吸がひとつ生まれる

日常に戻った今でも、あのカヌーでの時間を思い出すと、自然と深呼吸をしている自分がいる。マングローブの静けさ、カヌーの揺れ、光の優しさ、それらがすべて感覚として体の奥に残っているのだと思う。旅の記憶は風景ではなく、“感じたこと”として身体に刻まれるものなのかもしれない。そしてあの日、カヌーとマングローブに心を預けた自分のことを、今も少し誇らしく思っている。またあの静けさに包まれるために、もう一度石垣島へ行きたいと感じる日は、そう遠くないのかもしれない。

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