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石垣島アクティビティ|マングローブの間をすり抜けたくて漕いだカヌー

目の前に立ちはだかるマングローブの壁に心が躍った

石垣島の川をゆっくりと進んでいくと、やがて前方にせり出すように広がるマングローブの群れが現れる。その姿はまるで森の入口のようで、少し進めば通れなくなるのではないかと思わせるほど密集していた。けれど、その木々の間にかすかに道のような隙間が見えたとき、自然とパドルを動かす手に力が入った。そこをすり抜けたいという衝動は、目的地に向かうためではなく、ただその先を見てみたいという純粋な好奇心からくるものだった。まるで誰かが「ここから先は特別だよ」とささやいているような、そんな気配に引き寄せられていた。

パドルの動きが枝に当たらないよう慎重になっていく

マングローブの間にカヌーが入っていくと、自然と動きがゆっくりになる。左右にせり出した枝や根がすぐそこにあり、ほんの少しパドルを振り間違えただけで触れてしまいそうになる。けれどその緊張感が逆に集中力を高めてくれる。一本一本の枝の形や伸び方を読みながら、自分の動きと水の流れを合わせていく。すり抜けるという行為は、単に細い道を進むことではなく、自然と対話するように動きを調整していくことなのかもしれないと気づき始めた。

木々のトンネルを抜けると、光が一変する

マングローブの密集地帯を抜けると、ふいに光の質が変わる。影が濃かった場所から抜けた瞬間、差し込む光はまっすぐで、鮮やかに水面を照らす。その変化は視覚だけでなく、空気の温度や音の響き方にも表れてくる。一つの空間から次の空間へ移動することで、五感のすべてが新しい刺激を受け取っていた。マングローブをすり抜けることは、景色を変えることではなく、自分の内側の感覚のスイッチを切り替えることでもあったように思う。

すり抜ける動きに、リズムが宿り始める

最初は慎重に進んでいたカヌーも、次第にマングローブの形や水の流れを読むコツがわかってくると、リズムが生まれ始める。パドルを動かす手の動き、カヌーが揺れる角度、風が通る方向。すべてがぴたりと合ったとき、不思議なほどスムーズに間をすり抜けていく感覚があった。それはまるで自然がこちらの動きを受け入れてくれたような瞬間だった。マングローブの枝の間を滑るように進むその時間は、何かに“通してもらっている”という感覚に近かったかもしれない。

木の根元をすれすれに進むときの緊張と解放

マングローブの根は複雑に広がっていて、水面からわずかに顔を出しているものも多い。カヌーがそれらの間をすれすれに進むとき、少しでも進路を誤ればぶつかってしまうかもしれないという緊張感があった。けれどそれを乗り越えてすり抜けたとき、身体中にふわっと広がるような解放感がやってくる。難所を越えるたびに、風景が開き、空間が広がっていく。そのたびに、マングローブという存在の奥深さと、自分の中に眠っていた感覚の鋭さが少しずつ呼び起こされていくようだった。

木々の静けさの中で聞こえてきた水の声

マングローブの中をすり抜けている間、耳に入ってくる音は決して多くない。葉が触れ合うかすかな音、水がカヌーの先端にあたる音、遠くで鳥が鳴く声。そうした音の間にある“静けさ”の中で、水の声のようなものが確かに聞こえてくる。水は言葉を持たないけれど、流れ方や音の強さ、反射する光によって、何かを伝えてくるように思えた。すり抜けるという動きは、ただの技術的な行為ではなく、その静かな声に耳を傾ける時間でもあった。

目的地ではなく“動き”そのものに意味があると気づいた

どこに行くか、何を見るかよりも、その間をどう進むかに意味がある。マングローブの間をすり抜ける行為には、そうした“道の価値”が詰まっていた。枝の間をくぐり、根の横をすれすれに進み、水の中を静かに滑る。ひとつひとつの動きに、理由はないけれど意味があった。それは、マングローブという存在が“形の面白さ”だけではなく、“空間そのものが語りかけてくるような構造”をしていたからかもしれない。すり抜けたいという衝動は、自然の中に入り込んでいく本能的な欲求だったのだと思う。

すり抜けた先で出会った静寂と安心

いくつもの間を通り抜け、最も奥の水路に入ったとき、そこには驚くほど静かな空間が広がっていた。風も止まり、枝も揺れず、水面は鏡のように穏やかだった。誰の気配もなく、ただ木々と空と自分だけがそこにある。その場所にたどり着いたとき、すり抜けてきた一つひとつの動きが、すべてこの静けさのためだったのではないかと思えてくる。探検ではなく、逃避でもなく、自分が“戻る場所”のような感覚。マングローブの奥は、決して特別な景色ではなかったけれど、心の奥にふっと届くような安心をくれた場所だった。

帰り道のすり抜けは、まるで別の旅のようだった

同じ道を戻っているはずなのに、帰り道に見たマングローブはまるで違って見えた。行きでは見えなかった枝の形、感じられなかった水の香り、そして進むリズムがまったく違っていた。すり抜けるという行為の中に、自分自身の変化が表れていたのかもしれない。マングローブに入る前と出たあとでは、心の持ち方が少しだけ違っていた。その変化が、小さなすり抜けの連続によって育まれていたのだと気づいたとき、旅の本当の意味が見えてくるような気がした。

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