石垣島の現地人がおすすめするアクティビティ予約サイト

石垣島アクティビティ|カヌーを走らせるとマングローブの声が聞こえた

パドルが水を割った瞬間、静けさが響き始めた

石垣島の川辺にカヌーを浮かべ、パドルでそっと水をかいたそのとき、耳に入ってきたのは自分の動きがつくる小さな水音だった。周囲の音は驚くほど少なく、エンジン音も、話し声も聞こえない。水面を滑るように進むと、風の音が途切れ、代わりに“何かの気配”が聴覚を満たしていく。音と無音の間にあるような、自然が語る“声”のようなものが確かに存在していた。マングローブの森に入ると、その静けさが逆に、たくさんの音に満ちていたのだと気づくようになった。

葉が話す、枝が答える、水がうなずく

マングローブの葉が擦れる音は、耳に入るというより、肌にしみ込んでくるようだった。風が抜けたとき、乾いた葉が鳴らす小さな音が、何かを伝えてくる。すぐに枝が微かに揺れ、タイミングを合わせたように水面がざわつく。まるで木々同士が何かの会話をしているかのようなやり取りがあった。人の言葉ではない、翻訳もできない、けれど確かに意味のあるやりとりがそこにはあったように思える。そうした音の連なりが、“マングローブの声”と呼びたくなるものの正体だったのかもしれない。

カヌーの速度にあわせて景色のテンポが変わる

パドルを早く動かせば水しぶきが立ち、景色は速く流れていく。ゆっくり動かせば水面が穏やかに波紋を広げ、木々の影が長く滞在する。その速度の変化にあわせて、聞こえてくる“音”の密度やリズムも変化していくのを感じた。つまりこの旅は、見るものだけでなく聞くものも、自分の動きで変わっていく。カヌーはただの移動手段ではなく、“自然の音を引き出す楽器”のような存在でもあったのかもしれない。水をかくたびに、風景が音を返してくれるという感覚があった。

マングローブの根元にこもる静寂の濃さ

川幅が狭くなり、マングローブの根が水面すれすれに迫ってくると、音の質がまた変わっていく。周囲の空気が濃くなったように感じるのは、音が壁に跳ね返り、耳元に戻ってくるからかもしれない。風も弱く、葉のそよぎも止まり、水音だけがくぐもって響くようになる。そんな空間では、あらゆる音が“沈黙の中にある”ように感じられる。その沈黙こそが、木々の声の土台になっているようだった。静かだからこそ聞こえる音があり、自然との対話はそこから始まっていった。

聞こえるのは“音”ではなく“気配”だったのかもしれない

何かが聞こえた、とはっきり言えるような音があったわけではない。けれど“聞こえたような気がする”瞬間が何度もあった。視覚では捉えられない、触覚でも確認できない。けれど、確かに自分の中に入り込んでくる何かがあった。その感覚は、言葉よりも、むしろ気配に近い。木々の呼吸、枝の重さ、水の厚み、そういった見えない情報が耳の奥で共鳴しているようだった。マングローブの奥に入るほど、そうした“音にならない声”が濃くなっていくのを感じた。

カヌーに響いた自然のリズムが心に触れた

静かに漕いでいると、カヌー全体が振動する瞬間がある。水を押し分ける力、パドルのしなり、風に押される方向。そのすべてが船体に伝わり、体全体でその揺れを受け取る。振動は音ではないが、確かに何かを伝えてくるメッセージのようだった。それは森の奥から発せられているリズムであり、自然の心拍だったのかもしれない。カヌーという乗り物は、そのリズムを自分の身体に届けてくれる橋渡し役だった。水上という不安定な場所にいながら、どこか“安定している”と感じられたのは、この自然のリズムと同調していたからかもしれない。

音を遮らないカヌーだからこそ聞けたものがあった

エンジン音も機械音もない、手漕ぎのカヌーだからこそ、音を生まない存在として自然に受け入れられたのかもしれない。自然の中に溶け込み、音を邪魔せず、ただ静かに進んでいくからこそ、自然が心を開いてくれたような印象があった。もしこれが大きな船だったら、風景は見えたかもしれないが、音までは届かなかったかもしれない。マングローブの声は、派手な音の隙間からではなく、静けさの中に隠れていた。その声に耳をすませるには、カヌーという選択肢が最も適していたように思う。

聞こえた声は自然ではなく、自分だったのかもしれない

振り返ってみると、マングローブの声として聞こえていたもののいくつかは、もしかしたら自分の心の中の声だったのかもしれない。自然の中に入っていくことで、日々の生活で聞こえなくなっていた“自分自身の思考”や“感情の余韻”が、静けさを通じて浮かび上がってきたような感覚があった。つまり自然の声を聞いていたつもりで、実は“自然に話しかけられることで、自分の声に気づく”という構造だったのかもしれない。マングローブの奥で聞いた声は、自然と自分が共鳴してつくりあげた、心の深い部分の響きだったのではないかと思えてくる。

その声は体験が終わったあとも、静かに続いていた

岸に戻り、パドルを置き、カヌーを降りたあとも、耳の奥にはあの“声のような気配”が残っていた。風が吹いたとき、木の葉が揺れたとき、ふとその感覚がよみがえる。つまり、マングローブの声は一度だけの音ではなく、記憶として身体の中に残るものだったのかもしれない。音というより“気づき”のようなものとして、これからの日々の中にもふと現れる。静かな川を進んだあの時間が、心に何かを残していった。それはきっと、マングローブの声が語った“まだ知らなかった自分”との出会いだったのかもしれない。

一覧へ戻る
pagetop