石垣島アクティビティ|カヌーで気づいたマングローブの奥の生き物たち
カヌーでしか出会えなかった“奥”の世界へ
石垣島のマングローブ地帯をカヌーで進むと、観光パンフレットには載っていないような奥の世界に出会えることがある。道もない、声も届かない、そんな自然の深部には、想像を超える静けさと気配があった。その静けさの中でふと気づくのは、人間が作ったものが何も存在しないということ。そして、その中で確かに生きている小さな命の鼓動だった。目を凝らし、耳を澄まし、ゆっくりとカヌーを漕ぎながら進むと、そこには“気配”という名の声が漂っている。水面のゆらぎに影を落とす魚、小さな木の根元に身を隠すカニ、枝を揺らすトカゲ、そして葉の裏からこちらを見つめる鳥たち。彼らは声を出さずとも、その存在を確かに知らせてくれていた。
人間の視線を避けるように生きる生き物たち
マングローブ林の奥に進むにつれ、目に映る生き物たちは“隠れること”が上手だった。静かな時間のなか、じっと観察を続けていると、最初は気づかなかった命が少しずつ姿を現し始める。シオマネキが片手だけを持ち上げていたり、小さなハゼが泥の上を這っていたり。彼らはカヌーの音に敏感で、少しでも大きな音を立てるとすぐに隠れてしまう。だからこそ、気配を消して、そっと見守るという“観察の姿勢”が必要だった。双眼鏡を使っていたわけでも、餌で引き寄せていたわけでもない。自然の中で、自分の存在をできるだけ小さくしながら、そのままの生き物たちと距離を縮める。それがこのカヌー体験の本質だったように思う。
水面から顔を出す不思議な魚たち
石垣島のマングローブには、空気呼吸ができるトビハゼやミナミトビハゼといった独特の魚たちが棲息している。彼らは水中だけでなく、泥の上をぴょんぴょんと跳ねて移動するという変わった習性を持つ。普段、海の魚といえば泳ぐ姿をイメージするが、ここでは“歩く”ような動きを見せる魚が目の前にいた。最初はそれが魚だと気づかなかった。小さな枯葉かと思った動きが、よく見れば目があり、エラが動いていた。カヌーの静けさがあったからこそ、その“奇跡のような気づき”が生まれたとも言えるだろう。誰かに教えられるのではなく、自分の目で見て、自分の感覚でそれを発見するという体験が、強く心に残っていた。
カニたちがつくるマングローブの“足音”
シオマネキといったカニたちは、マングローブの地面に無数の穴を開けながら生息している。カヌーに乗って静かに観察していると、カニたちがいかにこの環境と共に暮らしているかが分かってくる。まるで土を耕すように、小さな手で泥をかき出して巣穴を整えていたり、片方の大きなハサミを上げて他のカニと距離を取っていたり。そんな彼らの動きは、音にすれば“シャッシャッ”という小さな足音にも似ていた。風が止まり、水音すら消えた瞬間に、そうした足音だけが耳に届いてきたことがある。生き物の小さな営みが、自然そのものを動かしているという事実に気づかされた時間だった。
木の上から見下ろす鳥の視線に気づいたとき
マングローブの世界は水辺や泥の中だけではない。頭上にもまた、生き物たちの気配があった。たとえばリュウキュウアカショウビンのような色鮮やかな鳥が、木の枝にとまってこちらをじっと見つめていたり、サンコウチョウが尾を揺らして飛び去っていったり。そのときふと思ったのは、自分たちが観察しているつもりでも、実は観察されていたのかもしれないということ。鳥たちは驚くほど静かで、羽ばたくときも音を立てない。彼らは自分の縄張りを守りながらも、人間の存在を完全には拒まない。静かにしていれば、それを認めてくれるような空気があった。見上げたときに感じた視線の重なりは、言葉のない対話のようでもあった。
カヌーがつくる“動かない時間”の価値
生き物たちに出会ううえで、最も効果的だったのは“動かない時間”をつくることだった。カヌーのパドルを止め、水の流れに身を任せながら、その場にとどまる。すると、先ほどまで気配を隠していた生き物たちが、ふたたび姿を現し始める。その姿は決して派手ではない。だが、だからこそ心に残った。マングローブの根元に現れたヤシガニの影、水辺に浮かぶアメンボの波紋、小さな生き物たちの影がゆっくりと水面に揺れるのをただ見ている時間は、情報やスピードにあふれる現代生活のなかでは味わえない贅沢だったように感じる。
観察というよりも“受け取る”感覚
このカヌー体験で出会った生き物たちは、どれも“見よう”として見つけたわけではなかった。むしろ“見せてくれた”というほうが正確かもしれない。じっとしていることで、環境の一部になり、そこに生きるものたちが少しずつ姿を見せてくれる。こちらからの接触ではなく、相手からの歩み寄りがあったように思えた。そういう意味で、観察というより“受け取る”という感覚に近かった。そこには知識や道具は不要だった。必要だったのは、沈黙と時間、そして五感を開く姿勢だけだった。観光や体験の枠を超えた、生命との静かな交差点が、マングローブの奥にはあった。
子どもと一緒に行くことで見える新たな視点
このカヌー体験は大人だけでなく、子どもと一緒でも楽しめる構成になっている。実際、同行した小さな子どもが最初に気づいたのは、私たち大人が見逃していた足元のカニだった。目線が低く、好奇心のままに観察する子どもは、彼らなりの方法で自然とつながっていた。ときに「ここに何かいたよ」と小さな声で教えてくれるその言葉が、大人にとっても新鮮な気づきを生んでくれる。親子で同じカヌーに乗って同じ風景を見つめるその時間は、単なる体験を超えて、記憶として長く残っていくものになるかもしれない。
マングローブの奥が教えてくれた、気配の濃さ
石垣島でのマングローブカヌー体験は、単に生き物を見るだけのものではなかった。そこにいたすべての存在が、“気配”というかたちでこちらに語りかけてくるようだった。その気配は、日常では感じられないほど濃く、息を呑むような感覚を与えてくれた。言葉にできるほど明確ではないが、確かにそこにいた命たち。その存在を“見た”という実感が、帰ってからもずっと残り続けている。マングローブの奥に踏み入れたことで、世界の奥行きがほんの少しだけ広がった気がした。