石垣島アクティビティ|マングローブが見せてくれた景色を覚えているカヌー
カヌーに乗り込む前の空気にも記憶の種があった
石垣島のマングローブでカヌー体験をするとき、実際にパドルを握る前の空気感からすでに旅の記憶は始まっている。集合場所で受け取るライフジャケットの感触、湿度を含んだ朝の風、遠くで鳥が鳴く声、それらはまだ「景色」ではないが、のちのち不思議と心に浮かぶ要素として残り続ける。吹通川や名蔵湾といったエリアで始まるカヌーの時間は、こうした小さな感覚の積み重ねによって、「ただの風景」ではない「自分の景色」を作り上げていくものになる。
パドルを入れた瞬間に始まった景色との対話
静かにカヌーを漕ぎ出すと、水面の反応が柔らかく広がり、周囲の景色が少しずつ動き出す。マングローブが両側に広がり始め、カヌーの視点から見る世界はすぐに“水平の広がり”から“包み込まれるような空間”へと変わっていく。葉の揺れや枝の重なり、根の形とその影。それらが自分の動きに呼応するように変化していき、進むたびに新しい景色が目の前に現れる。記録しようと思っていなかったのに、気づけば一枚一枚の風景がしっかりと記憶に焼き付いていくのを感じる。
マングローブの枝がつくる“額縁のない絵画”
とくに印象に残るのは、マングローブの枝が自然のフレームのように景色を切り取ってくれる瞬間である。右に傾いた木の影が水面に映り、左から差し込んだ光が一筋のラインを描く。そんな自然の構図は、絵画では再現できない動きと湿度を持っている。その空間にただひとり浮かんでいるという感覚が、風景を“見るもの”から“体感するもの”へと変えてくれる。誰かに説明しようとしても言葉が出てこない。それでも確かに、自分の中にはその“景色の質感”が残っている。
景色と感情が重なっていく不思議な時間
マングローブの奥へ進むにつれ、景色が濃く、深くなっていく。そのとき同時に、自分の心の中にある何かと風景が重なっていくような感覚に包まれる。ある枝の影が過去の記憶を呼び起こし、ある光の揺らぎが気持ちの静けさと呼応する。それは偶然ではなく、自然と人間の感情がゆっくりと重なっていく時間がそこにあるからだと思える。そうして出来上がった記憶は、写真や動画では再現できない“心にしか保存されない景色”となって残っていく。
カヌーの進行がつくる景色のリズム
パドルの速度をゆるめたり、止めてみたり、左右に角度を変えたりするだけで、見える景色は驚くほど変化する。マングローブの間から差し込む光の角度、風に反応する葉の表情、水面に映る自分の影。そのすべてが自分の操作と連動していることで、ただ進むだけの移動ではなく、“景色と呼吸を合わせる”ような時間が流れていく。そのリズムは心地よく、かつ無理がなく、自分のテンポと自然のテンポが交わる場所であると感じさせてくれる。
同じ道でも戻りながら見ると違っていた景色
カヌーでマングローブの奥まで進み、折り返して戻ると、来たときとまったく同じ道であるにもかかわらず、風景が違って見えることがある。それは太陽の角度や風の方向が変わったからだけでなく、自分自身の気持ちや集中の深さが変わったことに由来する可能性がある。行きでは気づかなかった木の影、見落としていた生き物の動き、音の響き。それらが帰り道でふいに目に入り、耳に届いてくる。そして、それもまたひとつの“マングローブが見せてくれた景色”として記憶に刻まれていく。
カヌーを止めてじっと見つめた景色の奥行き
ときにパドルを止め、風任せに流れながら、ただ前方のマングローブの景色を眺めていた時間も忘れがたい。視界の奥に無数の枝が重なり合い、そのひとつひとつが異なる角度で陽を浴び、水面に映る像がわずかに揺れる。何も考えずに眺めていたはずなのに、その風景の奥行きは、後から思い返しても印象が深く、自分の内側とつながっていたような気持ちが残っている。その時間こそが、マングローブと自分が静かに対話をしていた瞬間だったのかもしれない。
降りたあとも残っていた視界の記憶
カヌーから降りたあと、観光が終わっても、石垣島の町に戻っても、目を閉じた瞬間にふいにあのマングローブの景色が思い出されることがある。それは決して鮮明な画像ではないが、あのときの光の質や風の肌触りとともに、断片的に記憶のなかに現れる。その不完全な記憶のほうが、むしろリアルで、旅を強く印象づける。カヌーに乗っていた時間すべてが、ひとつの“記憶に残る景色”として整理されていく。それは自然がつくった映像ではなく、自分と自然が共同で記憶に描いた“景色”だったのだと感じられる。
石垣島のマングローブが見せてくれた“記憶の風景”
石垣島のマングローブをカヌーで巡る時間は、ただ移動して景色を見るというものではなく、“心のなかに景色を置いていく時間”だったのだと思う。マングローブは派手な色も動きもない。しかし、見た者の心に“残っていく力”を持っている。あの枝の形、あの水面の揺れ、あの光の粒。それらは時間が経っても静かに心のなかにいて、ふとした瞬間に蘇る。そして、ふとしたときにその記憶が心を癒してくれるような役割を果たしていることに気づかされる。カヌーが記憶していた景色は、つまりは“自分が覚えていたかった風景”だったのかもしれない。